エッシャーの階段

昨日は記念日だった。

平凡な一日。 ちょっと仕事が忙しい記念日だった・・・。

同僚に 借りていた本を返して、自分の本を貸した…
5,6年前に読んだ本をパラパラとめくって、また同じように 「 面白い 」 と思った。

ハッとする。
これって、自分が6年前から、成長していないってことだろうか?
それとも
6年前の感性を 今も持ち続けているってこと?
6年前の幼稚さで 今も物事を見ているってこと?

去年の自分。
一昨年の自分。

どんな風に、今日を過ごしたっけ?

毎日毎日 少しは努力して(人間的にも、精神的にも)ちょっとずつ成長しているつもりでいるが、 それは錯覚なのだろうか?
本当は、エッシャーのだまし絵のように、階段を上っているつもりで、じつは同じ場所を足踏みしているのだろうか?  私が上っている階段が現実の世界のものではなくて、エッシャーのだまし絵の中の階段だったら、永遠に登ってはゆけない。 私が目指している目標は果たして 現実のものなのだろうか。 私の生きているココの世界は本当の現実なのだろうか。


スキーは確かに(現実でありながら)現実的な日常ではない(ようなものだ)。 スキーを始めてから 私に時々おそいかかる熱病のような情熱が エッシャーの絵の中の、狂気に通じているようにも思えてくる。 私が生きたい場所は、現実だ。

エッシャーのだまし絵の中にある奇妙な空気。 バランス感のある冷静な非現実。 精巧に計算されたナンセンス。

・・・・・・
いや、私は計算なんかしてない。 やっぱり、決定的に違う。(なんだか安心) スキーにはまったのは、本当に 行き当たりバッタリ。 想定外の熱病のような夢中の恋なんだ。 でも現実。 正直 とても苦しい。 スキーがしたいから、強くなりたいと思った自分。 強くなりたいから走ろうかと思ったのだった。 今は もっと走りたい。 走る自分はいつも 「ありえない自分」。 ありえない目標に向かって 絶望的に果てしない道を目指しているんだ。 だけど走ると、息の苦しさが、いつも等身大の自分を自覚させてくれる。 こんなに弱い自分。いつも口先だけで 実行できない自分。 ランニングを通じて 自分をいちばん正確に感じることができる。
走ることが、私を現実の世界に引き戻してくれている。 たぶん そうなんだ。


Esher の絵の中の、階段を登る人影は 静止しているように見える。(動いているようには見えない)

私は動いていたいと思う。 走っていたいと思う。

この現実を生き続けるために。 自分を感じ続けるために。