今日は、母と高尾山に行ってきました。 ラントレじゃないよ。 母と一緒だから、ゆっくりウォーキング。 母は、トレッキングが好きなのに、暑さが大の苦手で、毎年 6月7月8月は、殆んど出かけない。 今年も 家にこもっていたらしく、しばらく歩いていないから、9月からシーズン開幕なんだけど、ちょっと不安みたい。 まず足慣らしをしたいと云うから・・・
  「 それなら高尾山いこうよ。 とりあえず 高尾山にお蕎麦食べにいこう 」
  「 そうねえ … 」
  「 あさってはどう? 」 という具合に、約束して朝7時に新宿で落ち合った。
ときどき、母も歳をとったなあと思う。(実際、70過ぎだ、そういえば) 昔は わたしの3倍は元気だった母が・・・。 3ヶ月 歩いていないだけで、歩く自信を失くしたみたいなコトを言ったりするから。 でも、それは私のランニングと似ているかもしれない。 うん、基本は同じだ。 私は、走るために走っているのではない気がしている。 生きていくために走っている気がするのだ。 こんなに体力のない虚弱な自分は、なにか身体を動かさないと、明日の朝、起きて着替えて 職場に行くことすらできなくなるのではないか、と考えたりしたことがある。 こういう考えは、身体の調子がいいときには頭をかすめさえしないのだが、体調を崩したときは、もう人並みの生活はできない・・・なんて(ばかみたいだが)思ったりする。 今日 5キロ走るのは、明日も5キロ走りたいからだ。 今日、高尾山へ母と来たのも、また山に行きたいからだ。 そして、また母のトレッキングの話を聞きたいから。 お蕎麦を食べながら、そんなことを考えていた。 自分のような人間の楽しみは ささやかなものだ。 目標も低くて小さくていい。 その小さい目標を、これからの人生の中では ありえないほど楽しんで ジタバタして、暮らしていきたいだけだ。


蕎麦屋を出て、駅まで歩いていく道で、これから山へ向かう多くの人とすれ違った。 そこに山があるから登る。 山は下りるために登る。 いろんなことを言う人がいるが、人は、日常の中から、ちょっとだけ抜け出したい気持ちをぶら下げて山へ来るのだと思う。 ちょっとした自然でいい。 死ぬほど険しい山でなくても。 日常の中の非日常を味わいに来るのだ。 穏かな日の山はいつも人にやさしいから。 ひとの心を包んでくれるから。


そうそう、今日は 14、5人のランナーに抜かされましたよ。 私もいつか ラントレで来たいな〜。(たぶん今は無理だけど、いつかは)  抜かしていったランナーの内4人が、外国人。 内2人が、明らかにオヤジ。 あとは、学生っぽい若いランナー達でした。