父の机

その会社に着いたのは、午後6時。
地下鉄の駅の出口で 姉と母と落ち会った。 歩いて3分。
此処には 前に来たことがある。5年ほど前だったか。
地味な4,5階建てのビル。


2階の受付はすでに明かりが消えていたが、女の子が気がついて対応してくれた。
質素な応接室に通される。会社の方が4人現れて 挨拶をした。
世間話を5分もしたか。

それから、案内された。
狭い通路。壁際にキャビネもあるし 物が積んであったりする。
雑然とした廊下を通り、左奥の 事務室内へ抜けた。
オフィススペースを パティションで仕切り、2つの部屋にしている。
裏側のスペースのいちばん奥の角が、父の仕事場であったらしい。


そこには あまり大きくない木の机があった。


「これが、お父さんが使っておられた机です」 

ちょっと年季の入った木の机に、黒い椅子。
机の上の大きな花瓶に花が生けられているのが目に付いた。
椅子の後ろのキャビネット(棚だったろうか?)の上に、手差し式の小さなプリンターがある。
父が1ヶ月前まで、仕事をしていた場所だ。


「 誰かが来ますと、こちら側のソファにかけて 応対なさっていました。
  おかけになってみますか? どうぞ遠慮なく。」


父の机の脇のスペースにはソファが置いてある。
想像よりもずっと地味な仕事場。
目線を上げると壁に飾られている写真が目に入った。
写真が数枚飾られている。見覚えがある。
父は自分が撮った写真を大きく伸ばして、額に入れて飾るのが好きだった。

このオフィスは初めて来た場所だが、なんだか懐かしい。
実家の父の部屋とは全然違うが、同じ空気を感じた。


机の前に行ってみた。 必要最低限の道具。
雑多なものは片づけられて、机の真中に花瓶。
父のライターと煙草。 湯飲みには緑茶。
今日も、誰かが 父にお茶を入れてくださっている。

机の上には Outlook のカレンダーのプリントアウトがある。
11月/12月のカレンダーは、ほとんど予定で埋められていた。
父が出るはずだった会議。 出張。
小さいく印刷された字を読もうと、腰をかがめて 顔を机に近づけた。
それと同時に 私は机の上に右手をおいた。
その瞬間、右の掌に懐かしいぬくもりを感じた。
木のぬくもりだ。 そう。 父は木の机が好きだったっけ。


子供の頃、家の1階に父の書斎があった。 それから15年前程前に単身赴任していた時の父の部屋(そこにも机があった)などを私は思い出していた。 父の部屋には必ず机があった。東京に戻り、今度は実家の2階に移った父の仕事場の机には PCを置くことになった。 あの机は、弟が昔 使っていた机だったろうか。 父の机の周りはいつもごちゃごちゃと物がおいてあった。 フロッピー。CD。筆記用具。付箋。書類。手紙。写真。ファイルフォルダ。手帳。地図。おせんべい。文庫本。色鉛筆。社内報。タクシーの領収書。ホチキス。航空券の半券。煙草と灰皿。そして、紙、紙、紙。


紙は書類の束でもあり、今 印刷した手紙でもあり、仕事の報告書のドラフトでもあり、プリントミスした紙でもあった。その中に、学会のパンフレットがあり、カメラの取説や、去年の年賀状、来週の出張の予定表まで雑多に紛れ込んでいた。 よくこんな状態で仕事ができるなぁ、と洪水のような紙たちの存在にいつも家族は呆れかえっていた。 もちろん父はよく探し物をしていた。

「 ああ。こんなところにあったのかぁ。
  先週はこれが見つからなかったから本当に不便だったんだ。」

父の本棚には、まったく同じ本が2冊あったり、同じ地図が2冊あったりしたが、それは不思議なことではなかった。 (必要な時にないと また買ってしまうらしい)


今、目の前のオフィスの机は キレイすぎる。そして なぜだか 小さく感じた。
それでも、父の机だということが私には分かった。
机の前に立って、振り返って一歩踏み出すと プリンタに手が届く。
横には手頃なサイズの本棚があり、資料や本を見える場所に置ける。
立ち上がると、すぐ手に取れる。
不揃いのオフィス家具には 見かけの美しさはないが、父の求める便利さと機能美が そこに立っただけで感じられた。 それは 昔の実家の書斎や、2階のPC机のある部屋、赴任中の父の部屋とも通じる同質の空気であり、同じ居心地のよさであり、その空間の主人が同じ人間だということを物語っていた。 誰に分からなくても、私たち家族には分かるのだ。

ここは父がいた場所だ。 これは父の机。 間違いない。
振り向いたら、そこに父がいるのではないか という
そんな父の気配すら感じた。
つい先日まで 父は毎日この場所に来て、ここで生きていたのだった。


姉は涙ぐんでいた。
母は毅然としていた。
私は悲しくはならなかった。 ただ懐かしい感じがした。


来週から、もうこの机は移動されてしまうらしい。
父の机。
仕方ないか。もう父はいないのだから。
父は逝ってしまったのだから。