一周忌

献花


今日は父の一周忌の会であった。 家族としては、皆さまに もう一度 父を思い出して語らう時間を持っていただきたい。 ただ、それだけ。 会社関係、NPO 関係、同郷の友達など、大勢が集まってくださった。 和やかな雰囲気のとても良い会だった。 友人・同僚に恵まれて、父が幸せな人生を送ったことは間違いない。 自分も 懐かしい方にもう一度会えたり、心が和むようなエピソードを聞けたりした。 父があまりにも突然に逝ってしまったので、ショックが大きかったのは、家族だけではなかったのだ。


私は この一年間 どっぷりと哀しみに浸っていた。 別れは突然でどうしようもない。 この悲しみに慣れることなんてできない。 泣いてばかりいた気がする。 いや、怒っていたのかもしれない。 肉親の死にどう対したら良いのか?と 無意識に考え続けていた。 私はどちらかというと死のもたらす悲しさ、激情、喪失感に圧倒されて、その哀しみを何処にやればいいのか? そんなマイナスな感情ばかりに溺れて苦しんでいた。


しかし、一周忌の会を終えての帰途、私は1年ぶりに すっきりした気持ちになることができた。 今日の会に来てくださった人の話が 前向きで明るい話、父の若い頃の無茶苦茶な話や、「不良的」行いや冗談など、「悲しさ」を遥かに上回る楽しくて愉快で人間くさい話を聞くことができたからかもしれない。 そして、父の始めた仕事を引き継いでいる人がいる。 父が関わってきた NPO の活動が、今年になってから マスコミに何度か取り上げられた。 人間は自分の死後も続いていくものを築くことだってできる。 人間はそんなに弱くないのかもしれない。 そんなことを信じられる会でもあった。


過去を思い 後悔するのは意味がない。 しかし、死を感じながら生きる時間は、人にとって有意義なものであるとも思えた。 私たちは自分や身近な人の死を普段は拒絶している。 自分達の時間が有限だということすら忘れている。 そしてある日 突然、なんとなく生きている自分に気付くのだ。 自分の大切なものは何なのか。 自分の愛情は何処にあるのか。 自分が絶対に失いたくない物は何なのか。 死を身近に感じなければ、見えないことが多い。 時間は多い方がいいに決まっているが、少ししか許されないのならば、何をすべきなのか。 何が自分にとって「有意義」なのか。 そんな事を とことん考えながら1年を過ごして、父の多忙で非人間的でもあった仕事人生と、自分の位置関係をようやく冷静に受け入れられるようになった気がする。


今までは、父の遺影を前にすると 溢れてくる哀しみと激情に呑まれてしまう私だったが、今日からは 自身の歩みゆく道を見つめ確認する、そんな冷静な気持ちになれるのではないか。
「 ただ迷わずに 歩いていけばいい 」
父の声が聞こえた 気がした。