トレイルランナー

今週の日経新聞駆ける魂」は、トレイルランナーの鏑木です!(夕刊スポーツ、月−水)
まだ、読んでいない方は、新聞すてちゃう前に読んでください。
しかし、40歳で、役所辞めてトレイルのプロになっちゃう生き方ってカッコイイ。
しかも、今日の写真はいい顔して載ってました。  [以下 今日の記事から抜粋]

トレイルランナー 鏑木毅(41歳)   (中)
群馬県新里村(現・桐生市)の実家は農家を営み、山を持っていた。堆肥をつくるため、家族で山に入って落ち葉をかき集める。鏑木毅は3歳のころから作業を手伝った。しかも両親は登山好き。そうした環境に置かれたからだろう、自然に山に親しみ、山で遊ぶ心が生まれた。
中学2年まで野球部に所属したが、控えが続いたため陸上部に移った。長距離に取り組んだ桐生高校時代は腰の故障に泣き、実績を残せず。だが、早大競走部出身の顧問の教師の影響で、箱根駅伝を走りたいと思い立ち、2年の浪人生活を経て早大に進んだ。「当時の早大は選手層が薄かったので、僕でも通用するのではないかと思ったんです」
競走部に入ると、2年のブランクを埋めようと猛烈に走った。部としての練習は午後の1回だが、鏑木は早朝、午前、深夜にもトレーニングを積んだ。「夜中に1人で30㌔を走ったりしていた。そこまでやっているとは誰も知らなかったはず」。その成果が表れて、2年の夏にAチームに引き上げられた。
だが、無理を重ねたツケが出た。秋になると座骨神経痛を患い、階段を上るのもつらくなった。まともな練習はできない。肩身が狭くなって、3年になるとともに退部した。「箱根」という夢は砕け散った。
卒業後、群馬県庁に就職したが、もやもやは晴れなかった。酒におぼれ、60㌔だった体重が80㌔まで増えた。「目標が見つからず、気分が悪くて、短気になった。ストレスばかりがたまり、3年以上も中途半端なときを過ごした」
そんな鏑木を救ったのは地元紙に掲載された1枚の写真だ。泥だらけになって山を走るトレイルランナーの姿が写っていた。すぐにそのレースに出たくなった。「これだと思ったら、火が付く方なんで」。にわかにトレーニングを再開、1997年の山田昇記念杯登山競走に出場する。
10㌔の荷を背負って山中を走るこのレースが、運命を変える。「長い下り坂で枝や切り株をよけるため、体をスイングさせながら走っていたら、背中がぞくぞくっとして、何かが降りてくるのを感じた。トレランの神だったんでしょうね」。陶酔し、夢中で走るうちにトップに立ち、初出場初優勝を果たした。
以後、トレイルランナーとして実績を積み重ねる。2005年に富士登山競走、北丹沢12時間耐久レースの国内3冠を成し遂げ、世界にはばたく。
早大競走部で深い挫折を味わった末に、幸運にも自分の居場所を見つけることができた。子どものころに養っていたものを考え合わせると、自分がいるべき場所に収まったというべきかもしれない。
「山を走っていると、酔うというか、気持ちが良くて『うひゃー』とか叫んでしまう。歩いているより、しっくりくる。二本足歩行を始めたばかりの人類が、野山を駆け巡っていたころのイメージが浮かんでくるんです」。子どもが緑深い野に放たれると、喜々として走り出すのに似て、鏑木は大自然の中で躍動を始める。体の奥深いところで、何かが騒いでいる。
日本経済新聞 2009/10/27(夕刊)